京大世界史入試問題 解体新書

            〜2002(平成14)年 2月実施(全4問題 100点満点)〜
                                   

第2問(配点30点)


☆ 問題


 次の文章(A、B)を読み、(  )内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(15)につい

ての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。


A 中国においては、その南北で風俗・景観・生産に大きな差異がある。たとえば農業で

 は、あわ・きび・( a )などは主に北部の畑作地帯で作られ、稲は主として南部で作ら

 れる。その境界は、だいたい淮河付近にある。


★ コメント


「教科書では、あわ・きびがクローズアップされていますが、中国では現在も華北の黄河

 流域を中心に、夏にあわ・きび、冬に大麦・小麦が栽培されているのです」



  平和が回復した宋の時代には、(1)産業が盛んになったが、農業においては江南地方

 の開発がめざましかった。米作では技術改良や新田の開発が進んで、米の生産高が増

 大し、長江下流域は穀倉地帯となった。「蘇湖(蘇常)熟すれば天下足る」のことばは、そ

 れを物語る。江南ではまたこのころ( a )の栽培も行われるようになって、その経済力

 は華北地方をしのぐほどになった。さて米の生産量はその後も拡大したが、(2)長江下流

 では商品作物の生産が増えた結果、長江中流域の( b )地方が、新たな穀倉地帯

 として浮上した。宋以後の王朝、とくに現在の北京に首都を置いた元・明・清朝にとって、

 江南地方の穀物をいかに首都に輸送するかは、重要な問題であった。


★ コメント


「『蘇湖熟すれば天下足る』(=宋・元の水田地帯が長江下流域)と『湖広熟すれば天下

 足る』(=明・清の水田地帯が長江中流域)の二つが分かっていれば簡単。

 ちなみに、『そこ(蘇湖)ここ(湖広)と今に近づく』と覚えられる。七五調だし」



  (3)モンゴルは、アジアとヨーロッパにまたがる空前の大帝国を建てたが、13世紀後半

 に即位したフビライは、大都(現在の北京)に遷都して元朝を開いた。(4)その後南宋を滅

 して、その領土を併合すると、江南の穀物を大都に送るために、新たに運河を開削して、

 それを利用する方法や、( c )による方法を試みたが、最終的には後者の方法により

 輸送した。元に代わって中国を統一した明朝は、その初期には南京を首都にしたが、

 (5)甥の建文帝から帝位を奪った永楽帝は、早くから北京を事実上の首都としたので、

 江南の穀物を北京まで輸送しなければならなくなった。永楽帝は元のときに掘られた運

 河を開削し直して、(6)北京から江南地方まで現在とほぼ同じコースを通る大運河を完成

 すると、( c )をやめて、大運河で穀物を輸送した。17世紀前半に明が、( d )の反乱

 により滅亡すると、(7)清朝が東北部から本土に進出して、北京に遷都した。清もまた大

 運河を利用して、江南の穀物を北京に輸送した。


★ コメント


「これは強調したいことだけど、教科書(山川出版の詳説世界史B)の中でこの『海運』とい

 う言葉が太字になっているのだ! 二つ目の空欄の前後の文章をよく読んでも、書けな

 い人が多かったのでは?」



  大運河は物資輪送の大動脈であるとともに、交通路としても利用され、官僚・商人・兵

 士・農民・(8)外国人その他大勢の人びとが、ひんぱんに往来した。


問(1)宋では産業が興って、商業が盛んとなり、銅銭を主とする貨幣経済が発達して、紙幣

  も使用された。宋代に使われた紙幣の名を2つあげよ。


★ コメント


「交換の交の字から交子(北宋の紙幣)を、会計の会の字から会子(南宋の紙幣)を思い出

 そう。交換も会計も、お金に関する言葉だから」



 (2)明代の長江下流域の農村で発達した主な家内工業を2つあげよ。


★ コメント


「工業につながる農業として、綿花の栽培は綿織物に、桑の栽培は絹織物につながるという

 ことが押さえられていれば楽勝でしょう。もちろん、桑の葉っぱは繭を作る蚕(カイコ)の餌」



 (3)モンゴル軍は、ヴェトナムに数回侵入した。(ア)当時ヴェトナム北部にあったヴェトナム

  人の王朝は何か。また、(イ)この王朝時代に漢字をもとに作られた独自の文字は何か。


★ コメント


「ヴェトナム史で陳朝が頻出なのは、フビライの派遣した元軍を三度撃退して民族意識が

 高揚し、それを背景にヴェトナム文字である字喃(チュノム)が漢字をベースに作成され

 ているから。つまり、『外圧→チーム意識の盛り上がり→新しい文化の誕生』という世界史

 の法則の好例だから」



 (4)元では、旧南宋領にいた人びとは、身分的に最下位に置かれていた。かれらは何と呼

  ばれたか。


★ コメント


「これって、ローマやイギリスが得意とした分割統治の一種。すなわち、同じ漢民族でも最後

 まで元に抵抗した南宋の漢民族を、その他の漢民族より下位に置くことによって、漢民族

 同士の団結と元への一致した反攻を抑えようとしてる。ずるうっ! あと、面白いのはヴェト

 ナムでは『南の文字』という意味の字喃に見るように、南という言葉をプラスの意味で使用

 しているのに対し、元ではそれを軽蔑の意味で使用しているという点。まぁ、これは北とか

 遊牧にプライドを持つモンゴル人らしいということ」



 (5)この内乱を何と呼ぶか。


★ コメント


「靖難の変との区別は、靖康の変の『靖康』が、今の日本の平成にあたる元号(年号)だと 

 いうことを知っていれば間違えないよね。靖康は『靖』も『康』もいい意味の漢字だし」



 (6)大運河は、現在の山東省を通る。そのコース沿いにかつてあった湖を根拠地に、主人

  公たちが活躍するのを描いた口語体の長編小説は何か。


★ コメント


「『水滸』とは『水のほとり』という意味。これを知った時、何か感動した。英雄・豪傑が集う

 梁山泊が、すごい水郷地帯のイメージがあったから。横山光輝氏のマンガの影響大です」



 (7)北京に入城する以前に組織された清の軍事的・社会的な組織を何と呼ぶか。


★ コメント


「清の軍事制度は色分けが好き。八旗は赤・黄・青(ここまで信号機)・白の4旗とそれ

 ぞれに縁(ふち)取りした4旗を合わせたもの。あと、緑営が八旗につぐ正規軍で漢人

 の投降兵を中心に編成され、主に治安維持にあたった。よって、赤・黄・青・白・緑の

 旗がたなびく清の軍隊は色彩イメージが強烈! あと、入試問題的にもっと大事なこと

 は、この八旗制は、遼の北面官、金の猛安・謀克、元の千戸制にあたるということ。征服

 王朝4つ丸覚えだよ」



 (8)イギリスが貿易交渉のために派遺した大使らが、帰国するために1793年大運河を通

  行した。この大使は誰か。


★ コメント


「これを大運河に絡めて出題するとは…。センス良過ぎ。まず、マカートニーかアマースト

 と的を絞り、年代からマカートニー(乾隆帝に三跪九叩頭の礼を省略して謁見を許され

 たが貿易拡大交渉には失敗)と正答できる」



B ギリシア系の( e )朝の支配下にあったエジプトは、7世紀半ばアラブ・イスラム軍に

 よって征服され、ここにエジプトのイスラム時代がはじまった。


★ コメント


「これはクレオパトラを最後の王とした王朝名で簡単だが、地域史でエジプト史を見ても、

 4世紀から7世紀までビザンツ(東ローマ)帝国領だった時代のエジプトについては触れ

 られていない。やはり属州支配が継続されていて、住民はギリシア系が多かったのかし

 らん?」



  9世紀になるとエジプトに独自のイスラム王朝が成立し、10世紀後半には、(9)北アフリ

 カにおこったシーア派のファーティマ朝がエジプトを占領した。


  (10)ファーティマ朝君主はカリフを称してアッバース朝カリフに対抗し、首都カイロはシ

 ーア派文化の中心となった。しかし、エジプトのシーア派化はあまり進行せず、1171年に

 クルド人の武将( f )がファーティマ朝を滅ぼし、スンナ派のアイユーブ朝をひらいた。ア

 イユーブ朝は十字軍との抗争に苦しみ、マムルーク(奴隷軍人)を多数登用して彼らの勢

 力増大をまねいた結果、1250年マムルーク軍団によって政権を奪われ、マムルーク朝が

 成立した。マムルーク朝は、1258年モンゴル軍が( g )を占領すると、アッバース朝カリ

 フの子孫を保護し、またモンゴル軍をくい止めてシリアを守った。以後マムルーク朝はエジ

 プトとシリアを領土とし、また(11)地中海とインド洋を結ぶ商業路を支配して経済的な繁栄

 を得た。


★ コメント


「サラディンをサラーフ=アッディーンと正確に書いたらボーナス点…なわけないか。でもサ

 ラディンはヨーロッパ人がなまって呼んだ名前だしねぇ。そこに価値があるとも言えないこ

 とはないが。このバグダード(ペルシア語で『神からの贈り物』)は何度外国の軍隊に占

 領されるのだろう。アラビア語の正式な名称が『平和の都 Medena Al Salam 』だというの

 は何たる皮肉! ちなみにバグダッドは英語読み」


  15世紀になると小アジアに拠点をおくオスマン帝国が強力となり、(12)1453年コンスタ

 ンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅ぼし、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエ

 ジプトとシリアを領土に加えた。オスマン帝国はスレイマン1世の時に最盛期を迎え、ヨー

 ロッパにおける領土を拡大する一方、東方では、(13)イランのサファヴィー朝から領土の

 一部を奪った。しかし、強盛を誇ったオスマン帝国も17世紀になると衰退のきざしが現わ

 れ、18世紀末には弱体化が明らかとなり、(14)エジプトでは、ナポレオン軍の侵入をゆる

 した。このような政情のもとで1805年エジプト人の支持を得て( h )がエジプト総督(太

 守)となり、近代化のための様々な改革を行った。彼は対外政策にも積極的で、アラビア

 半島に出兵して( i )王国を一時的に滅亡させ、またスーダンを征服した。


★ コメント


「ムハンマド=アリーがエジプト人の支持を得た理由は何だろう。やはりエジプトのアラブ人

 (イスラム教発祥の地の民族)住民がトルコ人による支配に反発したからだろうか。彼自

 身はマケドニア生まれのアルバニア人だが、これも彼のエキゾチックな魅力だったか? 

 山川出版の人名辞典には、『貧しいトルコ人夫妻の子』とあるのはなぜ? ワッハーブ王

 国の名前の由来は、その建国者であるマハンマド=アブド=アルワッハーブから。よって、

 出題者は『ムハンマドつながり』で問題を作っているのが分かる! どうですか? 図星

 でしょ! 話しかけてどうする」



  1869年のスエズ運河開通はエジプトの軍事上・交通上の重要性を増した。帝国主義諸

 国の関心が高まる中、イギリスがスエズ運河会杜のエジプトの持ち株を買収して発言力

 を増し、(15)1882年にはエジプトを軍事占領下においた


問(9)ファーティマ朝がおこったのは北アフリカのどこか。現在の国名で記せ。


★ コメント


「こういうのが嬉しい。自作テキストの一問一答では、ちゃんと『909年に北アフリカのチュニ

 ジアに建国され、969年にエジプトを征服…』と書いてある。自画自賛。

 ちなみに赤本には、『試験に出るチュニジア史』がまとめてあったので紹介する。

 @カルタゴの本拠地→Aゲルマン人国家ヴァンダル王国建国→B1881年フランス支配

  (イタリアを出し抜いた)→C1956年独立」



 (10)この頃ファーティマ朝やアッバース朝のほかにも、君主がカリフを称したイスラム王朝

  がある。(ア)その王朝名を記せ。また。(イ)その王朝の首都はどこか。都市名を記せ。


★ コメント


「いわゆるカリフ鼎立(ていりつ)時代。この鼎立ってやつは、世界史では三頭政治とか三国

 時代(中国にも朝鮮にも)に出てくる言葉だけど、もともとは黄河文明の時代の三足土器で、

 火力が強くて肉などを煮炊きした器の名前の鼎(てい。かなえ)から。あと 『鼎(かなえ)の

 軽重(けいちょう)を問う』ということわざ(権力者の実力を確かめるという意味)がある。

 この後ウマイヤ朝の都コルドバは同じ4文字のグラナダと混同しやすいが、3人のカリフの

 居場所を3つセットにしておけば大丈夫。すなわち、バグダード・カイロ・コルドバと発音する

 と、バ行とカ行の音が韻を踏んで耳に心地よい響き…」



 (11)15世紀末からヨーロッパのある国がインド洋貿易に参入し、1509年ディウ沖の海戦で

  マムルーク朝軍を破った。(ア)その国の名を記せ。また、(イ)その国が1511年に滅ぼした、

  東南アジアの貿易の中心であったイスラム国家の名を記せ。


★ コメント


「(イ)の説明文が(ア)のヒントになっている。つまり、東南アジア初のイスラム教国マラッカ王

 国が分かればそれを滅ぼしたポルトガル(提督はアルブケルケ)と分かる」



 (12)のちに「征服王」と呼ばれた、この時のオスマン帝国君主の名を記せ。


★ コメント


「好きな作家塩野七生さんの歴史小説『コンスタンティノープルの陥落』の冒頭に、まだ幼い

 メフメト2世が宰相に向かって『私はあの都が欲しい』と言う場面があった。

 ちなみに、このメフメトも『ムハンマド』のトルコ語読みなので、この問題も『ムハンマドつな
 がり』。ここまでやるか?!」



 (13)オスマン帝国軍は一時的にサファヴィー朝の首都を占領した。この時占領されたサフ

  ァヴィー朝初期の首都はどこか。都市名を記せ。


★ コメント


「これもさっきのチュニジアと同じ、甘い知識の受験生を間違えさせる良問。『初期の都』とい

 う但し書きを見落とすと、イスファハンと誤答してしまう。引っ掛かるな!」



 (14)(ア)ナポレオンのエジプト遠征の時に発見され、古代エジプトの神聖文字を解読する鍵

  となったものは何か。また、(イ)1822年紳聖文字の解読に成功したフランスのエジプト学

  者は誰か。


★ コメント


「エジプトに関する世界史というテーマで、これは決して外せない問題。出題者の気持ち、す

 ごく分かる。これもシャンポリオン版『古代への情熱』です。ナポレオンによるエジプト学の

 成立のエピソードも彼らしい。ちなみに、ヒエログリフはギリシア語で hiero 『神聖な』 glyph

  『文字』の意」



 (15)イギリスは1881年におこった反英反乱を鎮圧してエジプトを軍事占領下においた。この

  反乱を指導したエジプトの軍人は誰か。


★ コメント


「アラービー=パシャという人名だけど、アラービーはいいとして、パシャというのはもともとト

 ルコの高官の尊称で『太守』や『総督』『代官』と訳される。多くはオスマン=トルコ帝国で

 皇帝から任命された地方の高官を言う。これはムハンマド=アリーがエジプト太守(総督)

 に任命されたと問題文の中にあるのが、分かる人には分かるヒントになっている」



☆ 解答例


A a麦  b湖広  c海運  d李自成

 (1)交子・会子  (2)綿織物業・絹織物業  (3)(ア)陳朝   (イ)字喃(チュノム)

 (4)南人  (5)靖難の変  (6)水許伝  (7)八旗  (8)マカートニー


B eブトレマイオス  fサラディン(サラーフ=アッディーン)  gバグダード

  hムハンマド(メフメト)=アリー  iワッハーブ

 (9)チュニジア  (10)(ア)後ウマイア朝  (イ)コルドバ

 (11)(ア)ポルトガル  (イ)マラッカ王国  (12)メフメト2世

 (13)タブリーズ  (14)(ア)ロゼッタ石  (イ)シャンポリオン

 (15)アラービー=パシャ


☆ 出題分野・テーマ


A 中国経済史(宋・元・明・清)

B エジプト地域史(ヘレニズム〜19世紀)

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